大人になって軽度知的障害と診断された妹が、どのような学生時代を過ごしてきたか。
きょうだい児である私の記憶をたどります。
妹は学生時代、全て普通学級で過ごしています。
幼稚園時代
幼稚園の頃は、特に目立つ問題はなかったと記憶しています。
ただ、言葉の発達だけが遅いと感じ、病院にて週に1回「言葉の教室」に通っていました。
それ以外は心配なこともなく、お友達もたくさんいました。いろんなお友達が家に遊びに来ていたのも記憶しています。
私が幼いながらに覚えているエピソードが1つ。
幼稚園から帰ってきた妹が、その日にあったことを話してくれたのですが、私は彼女の言っていることが聞き取れず
何度も何度も聞き返しました。
母も一緒になって聞いていたのですが、母も聞き取ることができず、彼女の言っていることを最後まで理解することができなかったのです。
そして妹は泣き出してしまいました。
本人は一生懸命伝えようとしているのに、相手に伝わらない。
そんな悔しさからの涙だったと思っています。
この頃は、まだはっきり話せないことを「幼さ」のせいだと片づけてしまっていました。
小学生時代
6年間、支援学級に在籍することなく、普通学級で過ごしました。
小学3年生の頃に、担任の先生から「支援学級で勉強するのはどうか」と勧められたことがありました。
まだ発達障害という言葉もあまり浸透していなかった時代。
父は、学校側からのこの提案が受け入れられませんでした。
「●●(妹の名前)は普通じゃないか。障害者ではない。」
そのまま支援学級に在籍することは一度もありませんでした。
家では、この頃から徐々に口数が減ります。
妹が何と言っているか、分からないことが多々ありました。
「滑舌があまり良くないんだろうな」と、それくらいにしか思っていませんでした。
今思えば「はっきり話したくても、できなかった」と理解することができますが、当時は父が「はっきり話しなさい。」と幾度となく注意していました。
中学生時代
中学生時代、ここから一気に勉強についていけなくなります。
中学生になり、テストが終わると成績の順位が付くようになりました。そこに示される数字はいつも学年最下位。
これは後から本人に聞いた話ですが、授業中、先生が黒板に書いたことを、ノートに書き写すのが難しく、
お友達からノートを借りて、後から書き写していたそうです。
成績の悪さを心配した両親が、家庭教師を付けようと試みたこともありました。
放課後は部活もして、その後に毎日家庭教師の先生と勉強では、あまりにも忙しすぎて可哀そうではないかと、私が止めました。
家では相変わらずほぼ話さず、こちらから質問したことに対してYES・NOでの回答、もしくは一言二言程の返事のみ。
学校での生活はどうだったのか。友人関係はどうだったのか。この辺りははっきり分かりません。
ただ、楽しくなかった日々であったことは推測できます。
中学3年生のある日。周りのみんなが受験でどこの高校を受けようか考える時期。
「高校には行きたくない。」と泣きながら、私に訴えたことがありました。
この言葉が、どんな中学生活を送ってきたかを物語っていると思いました。
「高校に行けば、今とは違うメンバーになるし、違う環境になる。楽しいか、楽しくないかは行ってみないと分からない。」
私のこの説得に、彼女は高校へ進学することを決めてくれました。
公立の高校は落ちてしまい、滑り止めで受けた私立高校に通うことになります。ここも普通クラス。
今思えば、この頃から何かあれば話を聞いたり、説得したりするのは、両親ではなく、私の役目になっていました。
高校生時代
この高校生時代、彼女にとっては転機になります。
友だちができた
クラスに同姓の子が4人しかおらず、自然とその4人で集まるようになりました。
毎日のように学校帰りにはプリクラを撮りに行ったり、その友だちが実家に泊まりに来たこともありました。
友だちと、カラオケに行くからと言って、家で練習をしていたこともあります。
相変わらずうまく話すことはできないのですが、テレビに好きなアーティストのミュージックビデオを映し表示される歌詞を見ながら歌の練習。
しかし、やはりテンポが遅れる。
「練習すればうまくなる」と私も信じて疑いませんでしたが、リズムよく、テンポよく妹が歌っている姿を見ることはありませんでした。
それでも、友だちと一緒にカラオケに行って、楽しみたいから練習をするという、
ポジティブな発想での行動に、考え方がプラス思考になったなと感心していました。
テストの成績が最下位ではなくなる
中学生時代、むしろテストの順位で最下位以外をとったことはありません。
しかし、高校に進学して、テストの順位が最下位ではなくなりました。
ただ、これは妹の学力が向上したからというわけではなく、学校の性質にあると思っています。
あまり柄のいい高校ではなかったので、授業に参加していない、そもそも学校に登校していない生徒も多々・・・
よって、クラス全員がテストを受けているというわけではないので、テストを受けさえすれば最下位の順位を回避できてしまうという仕組み。
しかし、今までずっと最下位だった彼女にとって、自分が最下位ではないということが、嬉しくもあり、安心感も芽生えたと思います。
この辺りも、高校生活が楽しくなった要因と考えています。
就職の推薦を受ける
テストの成績はさておき、授業態度は真面目だった妹。
提出物などもきちんと出していたそうです。(もしかしたら、友だちのを写したりしていたかも)
高校3年生のとき、最初は就職を希望していました。
そして、地元で有名な企業に、学校から1人だけ推薦してもらえるのですが、なんと妹が推薦してもらえたのです!
しかし結果は、残念ながら、不採用。
筆記などはなく、面接のみだったので、受け答え等、うまくいかなかったかな・・・
ただ、学校から推薦を受けたという事実が、妹の自信にもなり、両親の安心材料にもなりました。
友だちもできて、学校からの仕事の推薦も受けれて、
うまく話せないのは、もはや引っ込み思案な性格のせいではないか!?と、この頃は誰も、妹に障害があるなどと、疑うことはない時期でした。
専門学生時代
妹は、結果的に高校を卒業後、就職せず、福祉系の専門学校に進学します。
高校からの、ほぼエスカレーター式のような感じで進学できる専門学校だったので
そこまで学力も必要とせず、すんなり進学できました。
そしてこれも本当に運がよく、この専門学校は、卒業と同時に福祉の資格を
取得することができたのです。(卒業と同時に資格取得できたのは、妹の卒業時が最後)
高校からの友だちも、同じ専門学校に進学していたこともあり
楽しそうな日々を送っていました。
介護施設への内定ももらい、就職したら一安心。
社会にでたら、一安心。
家族みんな、そう思って安心しきっていました。
ここから最大級の壁にぶち当たるとも知らずに!
最後に
幼い頃からのことを、思い返してみると、妹の障害に気付くチャンスは、何度かあったことが分かります。
普通学級で過ごすことが、彼女にとって負担になった面と、プラスになった面、その両極あると思います。
今思えば、どうしてもっと早く障害に気が付くことができなかったのかと思いますが
やはり、学生の頃は守られている存在だったということも、大きいと思います。
学生の頃は、何とかなっていたことが、社会に出るとそうはいかない。
ここから社会の壁にぶち当たっていきます。