軽度知的障害

大人の軽度知的障害【どのように就職したのか具体例】

ぷもちはこんな人

  • 軽度知的障害者の姉の立場から発信
  • 福祉大卒・生活支援員
  • 妹の障害者年金を申請→受給に導く
  • 妹をマルチ商法から脱却!



こんにちは、きょうだい児のぷもちです。



皆さん、こんな心配事や困りごとはありませんか?

・子どもが軽度知的障害と診断されたけれど、将来就職はできるのかな?

・自分自身が軽度知的障害と診断されたけれど、どんな仕事に就けるのかな?

・社会に出てみると、なかなか職場になじめず、うまく行かないことが増えたな。



私の妹は、22歳で軽度知的障害と診断されました。


現在、障害者雇用枠で介護職員として病院に勤務しています。


もちろんここに来るまでに、いろんな壁にぶち当たりました。


学生のときは、なんとかやり過ごせていたことも、社会に出ると、そうもいかない。


どのように就職できたのか、妹のケースを元に解説していきます。



この記事では、大人になって軽度知的障害と診断された私の妹のケースを元に、障害者雇用枠で就職するまでの経緯を紹介します。


専門学校を卒業してからの就職



専門学校まで、普通クラスで過ごしていた妹。


この時はまだ軽度知的障害と診断されていません。


その診断が下りるまでの間、一般就労で、どんな仕事をしてきて、どんな壁にぶち当たってきたのか紹介します。

高齢者福祉施設

卒業と同時にもらえた資格を活かし、一番最初は高齢者福祉施設に、内定をいただきました。(常勤職員)


ここでどんな壁にぶち当たったかというと、「文章を書く」ということ。


働き始めてすぐの頃は、日中の勤務のみで、夜勤などの夜間の勤務はありませんでした。


しかし、妹の帰宅時間は午前0時を過ぎることもしばしば。


どうしてそんなに帰宅が遅くなるのか、妹に尋ねたところ


記録を書くのに、とても時間がかかる」という回答でした。


記録とは、そこの施設にいる利用者さんの体温や食事の摂取量を記すものから、


1日のまとめの日誌、何か事故があったときに書く報告書など、多岐にわたります。


この記録に、かなりの時間を取られていたようです。

今までの学生時代の勉強面からみても、文章を書くことが苦手であることは、容易に想像ができました。


妹の書いた記録が、読んだ人に伝わらず、引継ぎなどができないなどのトラブルが発生し、


次第に陰口などを言われるようになったそうです。


それが苦痛で、1年でこの施設を退職しました。

服屋の店員

2つ目の就職先は、服屋です。雇用形態はアルバイト。

元々服が好きだったということもあり、好きなことがしたいとのことで自ら応募し、採用されました。


ここでの壁は「てきぱき動けない」ということ。


レジでお会計をする際、レジを打って、お金を受け取り、お釣りとレシートを出して、商品を梱包して・・・


その場でやらなければいけないことは、たくさんありますよね。


しかも、後ろに別のお客さんも並んでいると、あまり待たせてもいけない。


このてきぱきと動くということが、妹には難しかった。


レジ打ちを間違えるなども多発し、レジの業務は早々に外されたそうです。

今も、一度にたくさんの情報が来ると、妹はフリーズするので、服屋での業務も、かなり難しかっただろうなと想像できます。


ここは3ヵ月で退職しました。

高齢者のデイサービス


2つ目の仕事は雇用形態がアルバイトだったため、やはり正規職員で仕事をしたい(給料的に)とのことで、


高齢者のデイサービスで働きます。(常勤職員)


やはり資格を持っていることが大きく、また介護業界は人手が不足していることもあり、すんなりと再就職が決まりました。


が、しかし!


先述の通り、記録がうまく書けない、てきぱきと動けないことが重なり、ここの職場ではっきりと


障害者手帳でも申請した方がいいんじゃない?」と言われたそうです。


この時はまだ、私含め家族の誰も、妹に知的の遅れがあるとは思っていない時で、その発言に妹はかなり傷つきました。


ここも1ヵ月で退職しました。


引きこもりから、療育手帳を取得するまで

引きこもり

立て続けに仕事を辞め、さぁ次の仕事を探そうとした時の事。


以前の職場で、陰口を言われた妹は、介護の仕事を嫌がるようになっていました。


介護以外の仕事ばかりを探し、応募してみましたが、受けても受けても不採用。


10社ほど連続して不採用が続いたころ、妹は完全にやる気を失い、何もやらなくなってしまいました。


これがいわゆる「引きこもり」の始まりです。


ずっと家の中で過ごし、たまの外出と言えば、レンタルショップに行く、もしくはハローワークに行ってみるくらい。


時間が空けば空くほど、外に出にくくなるので、なるべく早く次の仕事が見つかって欲しいと願っていましたが、なかなか見つかりませんでした。


何社も不採用になり、うまく物事が進まないことに苛立ち、この頃から「こんな風になったのは、こんな風に生んだ母さんのせいだ」と


妹は、母を責めるようになります。


妹のメンタルも、両親のメンタルも限界のところまで来ていて、なんとかこの状況を早く変えたいと思っていました。


こんな状況が約1年続きました。



もしかして発達障害?


そんな頃、当時私が勤めていた職場で、大人の発達障害者の方に、インタビューをする仕事がありました(私は実家を既に出ており、遠方で生活していました)。

私自身がインタビュアーになるので、大人の発達障害のことについて、事前に調べてみました。


調べて驚いたのは、妹の特徴にとてもよく似ているということ。

もしかして、妹には発達障害があるのではないか



初めて妹の障害を意識したときでした。


すぐに実家に連絡し、どこかの機関に妹のことを相談に行ってみてはどうかと伝えました。

発達障害者支援センター



一番最初に相談に行ったのが、発達障害者支援センター


妹と両親の3人で相談に行きました。


が、しかし!


なんとここでは、特に問題ないのではないかと言われてしまうのです。


障害雇用枠ではなく、普通に1年間働いていた実績があるなら、特に問題ないでしょう。
引き続き、新たに仕事を見つけるのがいいですよ。



ハローワークを紹介されるに留まりました。


障害者就業・生活支援センター



前述の発達障害者支援センターの方から紹介されたハローワークに、相談に行くも


やはりなかなか仕事は決まらず・・・


他に相談支援を行っているところがないか調べ、次に行きついたのが障害者就業・生活支援センター


名前はよく似ていますが、別の機関になります。

「●●県  障害者就業・生活支援センター」 などと検索サイトで入力し、お住いの地域の支援センターを探してみてください!


こちらに相談に行き、言われたのが


今までの経緯を聞く限り、まずは病院で知能指数の検査を受けた方がいいと思います。
そして、これも恐らくですが、療育手帳を取得することになると思います。



ここで初めて療育手帳という言葉を耳にします。

すぐに病院を予約し、そこで様々なテストを受けことになります。


軽度知的障害



病院でさまざまな検査をを受けた結果、診断されたことは下記の通り


IQ=63(精神年齢8歳程度)
軽度知的障害
コミュニケーション障害


最初、「知的障害」という言葉に、衝撃を受けたことを覚えています。


でも、軽度知的障害というワードをネットで調べれば調べるほど、納得しかありませんでした。


この診断結果を元に、障害者手帳を申請するのですが、センターの方がおっしゃった通り


療育手帳を取得することになりました。


今までの学生時代、ずっと普通学級で過ごしてきた妹にとって


療育手帳を取得することは、すんなり受け入れられることではありませんでした。


今もまだ、受け入れられていない部分はあると思います。


でも、社会に出てうまく行かないことが多いのも事実。


この手帳は、就職するための道具だと思って割り切って使おう。


そんなアドバイスをした記憶があります。


手帳を取得したのは、妹が22歳のときでした。





障害者雇用枠



療育手帳を取得してからは、障害者雇用枠での仕事を探します。


今まで普通にハローワークなどで仕事を探していた時とは違い、手帳を取得したことによって、センターの方のサポートを受けながら、仕事を探せるようになりました。


面接などにも同席してもらえ、就職後も度々様子を伺いにフォローに来てくださりました。


そんな彼女の、障害者雇用枠で今まで働いてきた仕事を紹介します。


高齢者の有料老人ホーム



「もう介護の仕事はやりたくない」と言っていた妹ですが、療育手帳を取得する過程で、さまざまな検査やテストを受け、


工場の流れ作業や、介護現場が向いているとの適性がでました。

テストの結果を受け、適性があるならと、再び介護の道へと進むことを決めた妹。


そして、生活支援センターの方が見つけてくださったところは、一般就労の求人を募集している施設でした。


センターの方から、その求人を出している施設に対し、


療育手帳を持っている方を障害者雇用枠で雇用するのはどうですか?」と働きかけてくれたそうです。


そして、ここで無事内定をいただくことができました。


こちらでは、最初から苦手な事を伝え、そこを考慮してもらえるとの事でした。


考慮してもらえたこと

・記録を書くこと
・夜勤の勤務に就くこと
 (夜勤帯の勤務は、人数が少なく、1人で行う業務量が多く、妹には対応しきれないと考えたため)




給料はその地域の最低賃金で、雇用形態はパート


年収にして約130万円程度だったと思います。

こちらで、障害者雇用枠で働き始めて、人間関係が辛くて「辞めたい」と言ったことは、一度もありませんでした。


妹の特性を理解していただき、さまざまなことにもご協力いただいた証拠だと思っています。

返事は誰よりも大きい声だし、誰よりも素直。
他の部署で人が足らないときにも、ヘルプにも行ってもらえて、本当に助かっているよ!

一度、私が妹の職場に伺った際に、施設長さんから言われた言葉。


妹が働きやすい環境を整えて頂けたことに、とても感謝しています。


約6年、こちらの施設でお世話になりました。


とても良い施設でしたが、この給料ではなかなか1人暮らしを始めることも難しく、


もう少し給料面での待遇の良さを求めて、転職します。


病院


そして現在、病院で介護職員として働いています。


臨時職員の募集を見て応募し、その病院としては初めての障害者雇用枠で、介護職員として採用されました。


現在約2年勤めています。


こちらの病院に勤めだしてから、今まで一度も頂いたことがなかった「賞与」も頂くことができたそうです。


以前よりもお金に余裕が出て、気持ちにも余裕がでたのか


私の娘たちに、よくプレゼントを買って送ってきてくれるようになりました。



最後に


学生時代はなんとかやり過ごせていたことも、社会に出るとそうは行きませんでした。


さまざまな壁にぶち当たり、挫折し、試行錯誤の繰り返しです。


社会に出てうまく行かず、引きこもり、軽度知的障害と診断を受け、障害者雇用枠で働く。


引きこもって、次社会に出るまで2年弱かかりました。


調べること、行動すること、いろんな人の意見を聞くこと。


どれかが抜けていたら、今も妹は引きこもったままだったかもしれません。


療育手帳を取得したことで、障害者雇用枠という名の彼女の居心地のいいポジションを見つけられたと思っています。




  • この記事を書いた人

ぷもち

35歳三姉妹の母(小学生・幼稚園・保育園)/ 軽度知的障害の妹を持つきょうだい児 / 生活支援員 / ブログ初心者

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